夢の跡

 ――口付けは、血の味がした。

 

 

 轟音を立てて時代という巨大な波がすべてを覆い尽くしていく。荒れ狂い、嘲笑い、何も彼もを奪うように渦を巻き、抗う術も時も与えぬまま呑み込んでいく。
『これが過ちで、いつかこの世が先生を裁くなら私も共に裁かれるまで』
 世界が先生の敵に回るのならば、その時は世界を裏切ってでも先生についていくと決めていたのに。
『たとえ我らのしたことが後の世にまで"悪行"と伝わろうと、真実は、新選組会津の為、徳川の為、日本国の為にしたことだと胸を張れるのだ』
 そう言った近藤先生は、最期の瞬間、何を思ったのだろう。
 地獄に堕ちる時も共にあろうと。
 ただ、あの大きな背中を守る為に。ただ、それだけの為に生きてきたのに。
 なのに、もう近藤先生はこの世にいない。
 もう、いないのだ。
 ――病に伏した、この役立たずな自分を遺して。
 肺を切り裂くような激しい咳が総司の喉を突いた。
 喉の奥が、焼かれたように熱い。酸欠で眩暈がする。急速に目の前が白く滲んでいく。咳とともに、残り少ない総司の生命が確実に削られていく音がする。
 にゃぁ、と総司の腕の中にいた黒猫が鳴いて、その腕からすり抜けていった。それを引き止める力すら総司の中の何処にも残っていなかった。
「……ハハ」
 ひとしきり咳込んだ後、口元をぐいと拭って無理やり身体を起こすと総司は力なく笑う。
「こ…な軽い脇差でさえ満足に遣えな…なんて私…はもう…刀で死ぬ資格さえない…んです…ね」
「馬鹿ですか!」
 その言葉を一蹴したセイが、昏い眼をした総司にすがりついた。
「生きろと仰っているんでしょう! 近藤局長がフクを遣わして! 決まっているじゃないですか!」
「……決まっている?」
 力なく総司は繰り返す。
「決まっているんです!」
 総司にすがりついたままのセイが言い切った。
 否、すがりついているのは総司の方だったのかもしれない。
 二人とも互いを支えあうように、途方に暮れたように、そのまま抱き合っていた。
 ――新選組がもう戻れない場所まで来てしまっていた事には、とうに気が付いていた。
 走り続けた自分達の未来に何が置かれているのかなんて、みんなとっくに知っていた。
 それでも。
『総司』
 自分がずっと追いかけてきた人。その背中を守りたかった人。
 その大きな手がもう一度自分の頭を撫でてくれた気がして、総司のきつく閉じた瞳から熱いものが溢れる。

 

 

 現(うつつ)に、夢を見た。
「近藤先生!」
 呼びかける声より先に飛びつくと、振り向いた大きな腕が総司をしっかりと抱きとめてくれた。
「なんだ、また泣いてるのか、総司」
「当たり前でしょう、先生。ようやっと追いつけたのですから」
 子供のように口を尖らせて言いつのると、 近藤の手が幼子をあやす仕草で総司の目元を拭って優しく笑いかける。
「追い腹を切ってはならぬとあれだけ言っても聞かんのだな、総司」
「当たり前です」
 もうずっと幼い頃に胸に誓った想い。
「何処までもお供しますからね、先生」
「そうだな」
 いつものように笑ってくれるのが嬉しくて、総司も笑顔になる。
 ――難しいことは総司にはよくわからない。
 わからないように、していた。
 敵も味方も、あまりに多くの生命が失われていった。
 それが武士というものの宿命であるならば、守るべきものはただ主である近藤勇ただひとりだった。だからこそ、敢えて総司は何も考えないことを選んだのだ。
 近藤勇という男は純粋だった。純粋だったが故に、駆け引きとは無縁の武骨な男だった。
 そこが人を惹きつける魅力であった事は事実だけれど。それでも、時代を読むという才に欠けたのもまた、確かな事なのだ。
 武勇だけで生き延びることが出来る戦乱の時代であればよかったのかもしれない。
 或いは、武士になることなど夢に見る間もなく、百姓として日野で生きていく選択肢も時代さえ違えばあった筈だ。
「馬鹿だな、総司」
 近藤が笑った。晴れやかに、穏やかに。
「それでも私は後悔などしていないよ」
 幼い頃から夢見ていた武士にも、幕臣にさえもなる事が出来た。己の信じた誠を貫くことが出来た。
 討つものも 討たるるものもの 土器(かわらけ)よ
 砕けてあとは もとの土くれ
 ――徳川の終焉とともに、武士の時代は終わりを告げた。
 そのあとは、ただ、死に場所を探していたのは決して近藤だけではなかった筈だ。
 土方達を逃がす時間を稼ぐことが出来た事で、近藤は自分の最期に満足だったのだ。
「そうですね」
 近藤先生がそう仰るのであればそれでいい。
 迷うことなく頷いた子供のような笑顔の総司に近藤が苦笑した。
「先生?」
 流山では新選組の皆を逃がす為に時間を稼いだように。板橋では、相馬と野村にも生きて欲しいと願ったのと同じように。
「総司。お前に生きて欲しい」
 その声が、セイの声と重なった。
『生きろと仰っているんでしょう! 近藤局長がフクを遣わして! 決まっているじゃないですか!』
 二重写しになった近藤とセイの姿に、総司は苦笑する。 
「でも先生」
 言いかけた総司を近藤が抑えて首を横に振った。その先を口にしてはいけないと。
「私は、お前に生きて欲しい」
 もう一度、静かな声が繰り返す。
「総司だけではなく、トシにも、神谷君にも、生命が続く限りは諦めずに生きて欲しい」
 ――それが近藤の願いだと。
「約束だ、総司」
 子供の頃のように、近藤が総司に小指を差し出した。むくれたように総司は口を尖らせる。
「総司」
 促す声。
 ――例え、遠くない未来に総司が近藤の後を追うことを二人とも知っていたとしても。
「……ずるいなぁ、近藤先生」
 それでも、総司は指を絡めた。あの遠い日、頑是ない子供の頃から、近藤の言葉はずっと総司にとって絶対だったのだから。
「三途の川の手前で待っていてくださいね」
 その後は、決して離れませんから。
「承知した」
 大事なものを確かめるように、指が絡み合って離れた。温もりだけを残して。

 

 

 目が覚めると、自分はどうやらまだ生きているらしかった。いつの間にか懐にもぐりこんでいたフクが、にゃぁ、と鳴く。
 じっと指先を見つめる。
 ――夢だということはわかっていたけれど。
 それでも、確かにそこにはまだ温もりがある気がした。
 その温もりに背中を押されるようにして、総司は髪を切った。セイに土方への形見を託して、笑う。
「これで一度死んだ気になれましたから……逆に土方さんみたいに…新しい時代を見据えて生きていける気がするんです」
「沖田先生……!!」
 セイの笑顔がもうひとつ、総司の背中を押した。
 生涯、口に出すつもりがなかった望みをおそるおそる口にする。
「もうひとつ頼み事があるんですけど....聞いてもらえるでしょうか」
「ロクな予感がしませんけど...一応伺ってみましょうか?」
「……怒らないって約束してください」
「やっぱり怒られる自覚がある発言なんですね」
 軽くにらんでから、それでもセイは笑ってしまった。
「いいですよ、おっしゃってください」
 どんな頼み事であれ、総司の望みをセイが拒める訳はないのだ。けれど、続いた総司の言葉にセイは目を瞠った。
「――私の妻になってください」
「……」
 固まってしまったセイを見つめて、総司は困ったように首を傾げる。
「……と言ってもこんな病の身で何かしてあげられる訳でもないですが...この先の余生は...貴女の為に生きたいと思うので」
「……」
「なんとか言ってくださいよ」
「先生、失礼します」
 はたと我に返ってセイは総司の額に手を当てた。
「今日は熱はないようですけど。先生、お休みになってください」
「え? ええ?」
 そういう反応を返されるとは思ってもみなかった総司は、あっという間に布団の山に背中を押し付けられた。 
「か、神谷さん……」
「とうとう脳まで病が……」
 涙目になりながら失礼なことを言い出すセイの手をようやく総司が絡め取る。
 今まで手なら何度だって繋いだ。
 指切りだって何度だってした筈だ。
 けれど、こうして指を絡めあって間近で見つめあうのは、初めてだった。慌てふためいていたセイの動きがぴたっと止まる。
「先生?」
「駄目ですか?」
 真顔で総司が問いかける。
「だ、駄目って……」
「そうですよね……祝言さえもあげられないですし」
「え……?」
「夫として貴女を幸せにしてあげられるかどうかもわからないですし」
「え……?」
「それでも、神谷さん。これからも貴女にずっとそばにいて欲しいんですけど」
「……」
 ようやく総司の本心だと気づいた見開かれていたセイの瞳に涙が浮かんで、総司は悪戯っぽく笑う。
「返事、もらえますか?」
 ぽろぽろと涙を零しながらセイは頷いた。
「謹んでお受け致します……」
「良かった……!」

 

 

 八幡様の、あの桜の下での出逢いからどれくらい過ぎたのだろう。
 ようやくたどり着いた場所で、二人で交わす息が混ざり、血が混じりあう。魂までも混ざり合うような、二人とも熱に浮かされたような時間の合間にも、何度も何度も口づけを交わした。痛みを分け合ってひとつになった。

 

 
 ゆっくりと日々が過ぎていく。
 同じものを見て、言葉など交わさなくても笑みを交わしあえる。そんな日々を繰り返していく。
 繋いだ手の先より遠くには決して離れない一か月を過ごした。
 それは確かに奇跡の一か月だった。

 

 

「……神谷、気づいていないのか?」
 土方がふっと笑った。
「何がです!」
「お前、乳の匂いがする」
 ハッとなったセイは慌てて肌蹴た胸元をかき合わせる。
「俺は女には百戦錬磨だぞ。気づかない訳がないだろう」
「……それ、威張るところですか!?」
 真っ赤になったままセイが押し倒された土方の下から抜け出すと、土方はおかしそうに大きく肩を揺らす。
「赤子はどうした?」
 気づいたのは、総司を弔って千駄ヶ谷で過ごしていた間だ。土方を追って北へ向かう準備をしている中で月役が来ないことに気づいた。
 そこからが大変だった。
 ――総司との約束を守る為に土方を追うには、身重の身体ではあまりに無理があった。
『何考えてるん、おセイちゃん!』
 明里には散々叱られ、泣かれ、それでも最後には手助けしてもらった。
 総司が亡くなって九か月後、ようやくセイは子供をその手に抱いた。
『猿……というより、やっぱり黒ひらめに似てる、のかな?』
 そう呟いたら、明里が泣いているんだか笑っているんだか怒っているんだかわからない顔で、誰かの名前を呟いた。山南さん、と聞こえた。
 誠と名付けてセイが動けるようになるまで更に二か月……会津にはもう間に合わなかった。あれほど慕った齋藤の死を聞いても泣く暇すらなく。
 そしてようやく、この開戦間際の函館までたどり着いた時、やっと総司への約束が果たせると思った。
「……流石に、弁天台場まで連れて来る訳にいかないですから。明里さんが預かってくれています」
「明里……? ああ、神谷が囲ってたあの女か。そういやあいつもグルだったか」
「グルというか……」
 ――土方に逢いに行く、と言ったら信じられない!と散々叱られた。この一年ちょっとの間、明里にはどれほど頭を下げても足りないほどの恩がある。
「名前は?」
 問われてセイは顔をそらした。
「……誠、と」
 その名前を聞いて土方は笑った。馬鹿だな、と言いながらも総司の子供かと笑う顔はいつもの副長のものでひどく意地悪だった。
「総司は顔を見れた……訳はないか」
 流石に生み月までは月が足らないな、と土方が指を折る。
「残念ですけど」
「……そうか。でも、満足したんじゃないか?」
「ずっと土方さんを心配していましたよ」
 意趣返しのように言ってやる。
「だから、最後に逢った時も副長に連れて行ってくださいって言っていた沖田先生の代わりに私が来ました」
「阿呆」
 ぱちん、と土方がセイの額を指先で弾いた。相変わらず容赦ない痛みにセイは涙目になる。
「赤子はどうする気だ。総司の子だろう」
「ですが、沖田先生は……」
「総司の代わりにはこの刀で十分だ」
 最後の日の千駄ヶ谷。総司が土方を守ってくれるように念を込めた刀に触れる土方の手つきがあまりに優しくてセイはたじろいだ。
函館市中はもうすぐに新政府軍の手に落ちる」
 土方の言葉にセイはハッと顔をあげる。
「外国船をあたってやるから、とっとと江戸へ帰れ」
「副長」
「近藤さんも、総司も、きっと待ってるからな。俺はもう行ってやらないと」
「……沖田先生は私も待っててくれている筈ですよ?」
「ばあか」
 優しい声が笑った。セイが今までで聞いた土方の声の中で一番優しい声だった。
「総司なら、お前が100歳まで生き抜くまで待ってるに決まってるだろう」
「副長」
 知らず、セイは頭深くを下げた。涙がぽたぽたと落ちていく。
「いつか地獄でお逢いしましょう」 
 ――それは、いつか見た幸せな夢のように。

 

 

 

                                         2020.06.10 千羽矢